備後尾道 柿渋商店

瀬戸内地方で昔ながらに柿渋を手作りしています

米袋


ローラーで柿渋塗り。このあと布で拭いて、乾いたら二回塗り。これが一番早くむらなく出来上がると思います。袋の継ぎ目などは下の紙にも塗って貼り合わせるようにすると良いようです。今回それに気づくのが遅かったです、継ぎ目がめくれあがる袋も多数、、、
手前のタオルハンガーにかけて、他の袋を塗る間に乾いたら、庭に広げて干す。まんべんなく日に当てるため重ならないほうがよいのですが、風に吹かれてバラバラになりました これも自然の摂理かな

30kgの米袋、百枚に柿渋塗りました。天気のよい連休中になんとか作業できて、一安心。でも数日して色がでてきて初めて塗りむらに気づいたり、まだまだ、なかなか思うようには上手くできていません。もう百枚位塗ると、まあまあできるようになるでしようか。

こういう作業のときは、いつも、なんというのか、神がかる、という感覚を覚えます。一枚ずつ塗っては拭いて干していく、ひたすらに同じ作業を繰り返しているうちに、自分が無になって消え失せ、ただ手と体が動き続けていき、また、無になった自分の意識が中空からそれを眺めている、、というような不思議な感覚になります。気がついたら、なんとか膨大な作業が終わり、我にかえり、広げた米袋の山を見て、自分で驚きます。はあ、よくやったなあと(自画自賛)。これはとても自分一人がしたことではない、この身に入り替わってくれた神仏の加護、天地と柿渋の精霊に感謝、、、という気持ちになります。

、、、まあ、そういうほどの大した作業でもありませんが、それでも、膨大な反復作業で意識が半ば飛ぶという一種のトランス状態は、一度経験するとクセになります。ランナーズハイに近い感覚でしょうか。違うかな。天地に自分が溶けこんで無になり、自然の働きの一部として、柿渋を塗ることを、何か大いなる創造主の意思のもとに、自分の意思ではなくて、勝手に体が動いて、なしていく、というような感覚です。(大げさかな~)

天職とは英語でコーリングcalling 、召命、呼ばれるものだそうですから。呼ばれたら、できるだけ頑張ってみることにしています。

でもまた百枚米袋を塗ってと言われたら、うーん、もう今年はいいかな、頑張ったかなー、みたいな、遠慮する気持ちでいっぱいです。いやー、もう満足かもです、えへへ。

さ、非日常終わり、通常の日常業務に戻らねば。また草刈りもしなくては。やっぱり、たまにやるから良いのではないでせうか、神がかるようなことは、、、。プロの職人さんや選手などは毎日神がかってるのかな、それはどんな感じなのでしょうか。

ともあれ、柿渋倉庫前の栗拾い。放置しておくとイノシンが来て周りの畑に迷惑をかけてしまうので、工場長さんとせっせと拾います。なんと豊かな自然の恵み。写真ありませんが、また指を筋肉痛にしながらせっせと皮をむき、炊飯器にポン、美味しい栗ご飯を頂きました。感謝。さて、明日も頑張ろう。


kanae3 • 2020年9月23日


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